通信言語と社会の形態

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ウガンダの現地語の通訳を通して、ウガンダ人とお話をすることがあるが、これがなかなかの至難の業である。その背景を考えてみた。”文脈”は、特定の人々のみによって理解される、共有されるものと、定義する。

ウガンダ全体を、言語的に見ていくと、大部族3つ、部族語53、それぞれの言語の方言、などに分けられる。その中でも、小さい社会ほど、文脈性は高くなり、多くを言わなくとも会話が成り立つ。


“どこだ?” (彼が毎日この時間に行くのは農作業、聞き手は鍬を探していると理解する。)
“そっち” (この家には、鍬を置く場所は2箇所しかなく、あっちではないようなので、聞き手はそっちで特定の場所を理解する。)

長年寄りそった夫婦などがいい例だが、共有する情報が多ければ多いほど、文脈性が高い会話が可能になる。逆に言うと、その会話はとても閉鎖的になり、第三者にはとても理解できないものになる。

“来た。”といきなり言っても、小さな社会では誰が来たのか通じるが、大きな社会では、”○○さんが来た。”と言わないと通じない。この違いを認識できないと、村を出た場合、他部族の地域や国外に行ったときに上手く通信がとれなくなる。

また、外国人に対しては、英語で話せば良いかと思っているひとが多いようだが、ウガンダまたは個々の部族や村の文脈の英語でいくら話されても、外国人はそれを理解できない。ここを乗り越えられるウガンダ人は意外と少ない。

外国人がウガンダ文脈を習得して、ウガンダ文脈英語を話すという選択もあるが、それでも通じないことがある。それには、別の理由がある。また次回。

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