今回は、記録と記憶について。
同じ質問をしたのに、今日と明日で回答が違う場合がある。その日の天気に関しての質問に対しての回答であれば良いのだが、それがその人の誕生日に対するものだったら問題である。
人間は、全てを記憶することはできないから、記録する。皆さんのパソコンには相当な量の記録が残されているだろうし、図書館に行けば自分の以外の記録を見ることができる。記録をするためには、言語だけではなく文字が必要だ。
受験のための勉強などがその良い例だが、地名、方程式、英単語などなど記憶しないといけない。どうやって記憶するか。教科書や参考書を何度も繰り返し読んだり書き留めたりして、記憶する。教科書や参考書という記録から、記憶している訳だ。
多くの人は、小学校1年生のときの担任の先生が誰であったかは思い出せても、特定の日の給食の献立までは思い出せないだろう。でも、もしその献立が日記なりどこかに記録されていたら、それが自分の記憶になり、また何日間か何年間かはそれを忘れないことになるだろう。記憶したということ。記録があるか、記録がないかで、記憶の量が大きく変わることになる。
さて、その記録に必要な文字を持っていなかった言語は結構多い。現在、それらの言語はアルファベットを使って記録されていることが殆どだ。英語で教育を受けて、すらすらと英語をアルファベットで書けるのに、自己の部族語を書かせるとどうも上手くいかない。その言語を書くためにできた文字ではないから当然ともいえる。
ウガンダが英国の保護領(植民地ではない)になったのが、19世紀の終わり頃、きっとその前は文字を書くという教育はされていないだろうから、ウガンダ人が文字を書くようになって100年たったかたたないか位ということになる。識字率は2003年度の調査で70%くらい。
こうなると、いくら外国人がウガンダ文脈、それぞれの部族や個人の文脈を理解しても、もとのデータがあやふやなので、いくら質問してもなかなか確かな情報を得ることができない。お互いの頭をLANケーブル(二人の場合はクロス・ケーブル、それ以上の場合はハブ経由のストレート・ケーブル)などでつないで、言語にコード化する前の、感情とかイメージなど生の記憶を相手から引き出したくなる。インターフェイスをどう作るかが問題だ。