「時間を守る」ことによって、得られるもの、失うもの

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この前ウガンダで音楽を教える日本人と話す機会があった。

ウガンダで音楽を教えている彼女だが、やはりウガンダ人は教えられることが上手ではないと言っていた。その代わり、見よう見まねで素晴らしい演奏し、即興も決める人もいる。しかし、学問や論理として、それを学ぶことができないのだと。

プロの歌手は原曲に飽きてきて歌い方を変えて、もとの曲とは全然違う歌を歌うし、バックダンサーは練習をしないから、全然振り付けが合わない。きっと、これは商業音楽、商業ダンスとしては、失格なのだと思う。観客は10年前の曲だろうと自分の好きな曲を聴きに、会場に来ている。ただ、彼らは自分の好きなように歌い、好きなように踊る。

しかし、そういう風に好き勝手に演奏した音楽でないと、出来ない何かがあるのではと、それはそれで価値があるのではと、彼女と意見が一致した。ただ、それはメンバーが集まって、偶然皆の息が合って出来たもので、自然現象的なものだと言っていた。何月何日の何時にどこの会場で、そこに来ているお客さんのために、きっちりと演奏する商業音楽とは異なるものだと。それに対して、日本でもアメリカでも本当のプロの歌手は全国ツアーで同じ曲を同じように何十回も歌わないといけない、時には何年も何十年も同じ曲を歌わないといけない。

「時間を守る」と失ってしまうもの、「時間を守る」ことによってのみ得られるものがあるのだと思う。

ウガンダに来た旅行者の言う「ウガンダって良いですね」は、「時間を守る」ことによって失うべきものを、ウガンダ人が失わずに持っている状態を指していることが多いように思う。逆に、在住者が嘆くのは、「時間を守る」ことによって得るべき何かを彼らがもっていないからだと思う。

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