得ることによって失うもの

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私は仕事柄出張が多く、出先でメールやインターネットが確実に見られるかどうかはとても重要で、スマートフォンや携帯電話は電池の持つものを選び、日によっては充電器や予備のバッテリーを持参する。

どこの国に行っても、先ずはその国のシム・カードを買って、ネット環境を作るようにしている。メールは常時受信して直ぐに見て、必要であれば返信もして、ネットでニュースも常に見る。

しかし、出張中でもなく、普通にカンパラで事務所仕事をしている期間でも、なぜかいつもスマートフォンをチェックするのが習慣になっていることに気付いた。渋滞や信号待ちの時にメールをチェックして、レストランで食事が出てくるまでの間はネットのニュースを見て、常にスマートフォンをいじくっている。更に、音楽も聞けて、動画も見れる。

だから、スマートフォンは道具としてとても優れていて、それは間違いがないと思う。

ただ、何かを得るということは何かを失うということで、その代償としてなのか、私の読書量はかなり減ったように思う。以前は買ってきた本は直ぐに読み終えて、もう読む本がなくなったと不満に思い、次は何の本を買おうかと常に考えていたのに、今では半年も前に買ったのに未だ読んでいない本が何冊かある。

それ故に、私はこの便利な道具をあまり使わないことにしようと思う。もう少し、不便な道具に切り替えて、もう少し不便な生活をしよう。

我が家にはテレビがなく、子供にテレビを買うようよく言われるのだが、こちらもテレビが家にあることによって、今ある何かが失われそうで、なかなか決心がつかない。テレビが見られない不都合も当然ある。

それと、人材を育てるのも同じことで、何かしら人の不得意なところを直そうとすると、今までその人のもっていた得意なところがなくなることがある。だから、人を育てるのは難しい。

因みに、先日行ってきた南スーダンで会った人達だが、彼らは惚れ惚れするほど確固たる生き方をしていて、今彼らが持っている何かを失わないために、彼らには何も得て欲しくないと思った。

現代のアフリカは大過渡期にあり、彼らはためらいもなくどんどん新しいものを取り入れていて、得る代わりに失っているものもかなり多い筈なのだが、当の本人たちがそれに気付いていないことがように見える。社会の変化に関わる外国人は、彼らが何かを得ることによって何かを失わないか常に考慮する責任があるが、既に取り返しのつかないところも多い。これから、アフリカはどれだけ失い続けるのだろうと心配になることがある。

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