ウガンダでの反同性愛法案の立法を受け、多くの先進国の援助国はそれを非難し、ウガンダへの支援を削減した。同性愛問題などそもそもシモの話で、そんなに真剣に揉めるような話ではないと、私は思っているが、実際問題国際問題にまでなってしまっている。
彼らは、本質的に一体何に関して対立しているのだろうか。
「懐妊」対「快楽」
最大の争点は、当事者にとって「性行為」とは「何」であるかという違いだと、私は思う。性行為の目的の認識が違えば、当然同性愛に関しての捉え方も変わってくる。
私の身の回りで起きた話を引用したい。先日、ある高齢のウガンダ人男性と話す機会があった。彼には、3人の妻と15人ほどの子供が居る。彼は、妻一人子供二人の日本人に向かって、君は一体何をしているのか、この私が未だに子供の数を増やしたいと思っているのに、と言った。君は努力が足りないのではないか、と言った感じだった。種の保存にとても忠実な彼に、私は男の業を感じた。彼にとっての性行為とは、間違いなく懐妊が目的だ。
対して、性行為によって得られる「快楽」は、性行為の二次的効果だ。その本来の目的は、懐妊であることは言うまでもない。懐妊を目的としない、快楽だけのための性行為を行う生物はとても少ないので、当人はそう意識していないかもしれないが、これを知性的行為と呼ぶことにする。対して、懐妊が目的である性行為は、本能的行為だ。
同性愛の性行為に懐妊の可能性はなく、前述の定義でいうと知性的行為だ。しかし、それを、種の保存に忠実で、男の業を持った男の目線から見てみると、性行為の二次的効果だけを利用するのは、とても不純な行為で容認ならない、けしからんとなる。アフリカでは、あまり性産業が発展していないのは、ここに理由があると思う。
対して、本来の懐妊という目的を意識的にか潜在的にか忘れていて、性行為を快楽として捉える人からすると、人に迷惑もかけていないし、そこから快楽を楽しんで何が悪いのかしら、となる。
なので、同性愛に賛成する人と反対する人とでは、「性行為とは何たるか」の認識が、そもそもほぼ間違いなく大きく違うのだ。「懐妊」対「快楽」、大げさに言うと、生き物としての先天的本能に対して、人類が発生してからの後天的知性。
「性行為」の目的なり認識を一致させない限りは、同性愛に対する考え方が一致することは永遠にないと思う。
続く。