私の思うアフリカ ~なぜアフリカは発展しないのか~  05 大過渡期

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今回はウガンダの歴史を例に、現在のアフリカの発展を考える。

 

ウガンダに初めてのヨーロッパ人が来たのは1862年で、彼らはナイル河の源流を探す英国人の探検家だった。その後、1877年に英国正教会の、1879年にローマン・カトリックの宣教師が宣教を目的に訪れている。その後、宗教対立を発端とする代理戦争のような内戦を経て、1892年にブガンダ王国と帝国イギリス東アフリカ会社が保護領の協定を結び、1894年に英国とウガンダが保護領の協定を結ぶ。

 

アフリカ全体では、ヨーロッパで開かれた国際会議でアフリカの分割統治が話し合われ、ヨーロッパ人によってアフリカの国は作られた。アフリカ大陸に国境線を引く作業にアフリカ人は参加しておらず、当然彼らの意見はそれに反映されていない。

 

ウガンダに話を戻すが、保護領になって約50年後の1945年に、国の立法機関にあたる立法審議会において、初めてウガンダ人の議席が3席割り当てられ、更に約10年後、独立の8年前に、同審議会の28議席のうちウガンダ人が14議席、アジア人が7議席、ヨーロッパ人が7名という割り当てに変更された。そして、約70年間の保護領の時代を経て、ウガンダは1962年に英国から独立した。

 

保護領の始まりから独立までの70年間に、宗主国である英国からウガンダに輸入されたものを上げてみよう。文字、外国語、宗教、国家、行政、法律、税制、通貨、道路、鉄道、車、水道、電気、郵便、教育、学校、紙、病院、通貨、銀行、洋服、換金作物、いくら書いても足りないくらいだ。そのいくつかは、以前からウガンダに存在するものだったが、それらは継承されることなく、宗主国が持ち込んだものに切り替えられた。

 

70年間かけて英国がこのようなものを制度、概念、物を持ち込み、ウガンダという国を作り、独立という形でそれをウガンダ人に引渡した。ヨーロッパ人が自国で何年間かけてこれらを形成してきたのか、70年間でどれだけウガンダ人がその形成に携わったのだろうかということを考えると、彼らが独立後に宗主国が築いたものを維持していくことは極めて困難だったに違いない。

 

ウガンダには、ブガンダ王国対他の地域という政治的な構図もあり、1966年にはブガンダ危機と呼ばれる混乱が起き、東西冷戦の影響を背景に、1971年からイディ・アミンが大統領に就き、1986年まで内戦が続く。ウガンダはアフリカでも内戦の期間が長かった国の一つだが、他の国でも内戦や虐殺が起きたり、経済が破綻したりという状況が続いた。

 

宗主国が作った国を、引き継ぐだけの基盤がないまま、独立という形で宗主国が形成した国を地元の人たちが引き継ぎ、独立後も混乱が続いた。アフリカは、あまりにも短い期間に、あまりにも多くのことを受け入れ、それを消化しきれない状態にある。とてもとても大きな過渡期にアフリカがあることが、「なぜアフリカは発展しないのか」という問いへの一つの答えだと思う。

 

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