以前からアフリカで会社を始めたい、アフリカで起業したいという話を聞くことがあり、家庭の事情でそれ以外の選択肢がなくアフリカで自営業を始めた私は、その度に違和感を憶えていた。今日はアフリカでの起業について書いてみる。
私の意見を書く前に、少し自身のことを書いておくと、父親が自営業者で、私自身は大学中退で貿易会社に入社して、21歳から5年間ウガンダでその会社の雇われ社長をやって、26歳で自分の会社を始めて今に至る。去年50歳になった。
低空飛行ばかり続ける自分が言うと、やや説得力に欠けるかもしれないが、アフリカで30年近くやってきた実績はあるので、自分のことを棚に上げて書いてみる。
大切なのは何をやりたいか
私は起業が夢であって欲しくないし、夢であるべきでないと思っている。夢であるべきは自分がやりたい、なりたい「何」かであって、分かりやすくいうと、プロ野球選手だとか、アイドルとか、医者とか、警察官というのが夢だと思っている。
で、自分で「何」かをやる時に、その「何」かとどう付き合っていくか、関係していくか、という選択が出てきて、会社員として、アルバイトとして、起業家として、どのような形で「何」に携わって行くかとことであって、それは「何」と「どう」付き合っていくかの一つの方法でしかない。英語でいうと、「何」がWhatで「どう」がHowだ。
一番大切なのは自分がやりたいと思う「何」であって、それと「どう」関わっていくかというのは二の次の話だ。
一過的な意味合いの言葉
辞書通りに起業という言葉を捉えると、それは「新しく事業を起こすこと」だ。「起こす」という行為が一過的な意味合いなのであれば、多少の資本金さえあれば、誰でもできてしまう。なので、「起業」自体に特に値打ちがあるとは思えない。
誰かが会社を始めて、自身を起業家と言えるのは、最初の何年かだけで、ビルゲイツでも孫正義でも事業を始めた時は起業家だったのだろうが、今は会社の経営者だ。この二人が素晴らしいのは自分が始めた「何」において結果を残したからで、大切なのは、自分が扱う「何」において、どれだけの結果を出せるかで、起業という「どう」はあまり大切だとは思えない。
能力
起業家、経営者という呼び方はさておき、自分で会社を経営していくには、それなりに高い能力が必要だ。
極端な例だが、高校野球、大学野球なり社会人野球で結果を残していない人が、プロ野球のドラフトに選ばれることはないだろう。また、高校や大学の成績で、自分が医者や弁護士になれるかどうかも大体は分かるだろう。
ただ、起業家、経営者の場合、自分でも成れると思う人が割と多いように思う。確かに、大企業のそれから、零細企業、一人社長まで、起業家、経営者といってもピンキリで、成れる人が多くいるのは事実だし、大学受験やスポーツの県大会、全国大会みたいに、自分の起業家としての実力を知る機会がないというのもそうだ。
起業後も「何」かを提供し続けるのだから、自分が起業家としてやる「何」において、既にそれなりの結果を残していることは、起業する人の一つの条件なのだろうと思う。
向き不向き
夢を叶えるために、なにか努力して起業家になろうとする人の話を聞くと、とにもかくにも止めておきなさいと思ってしまう。物事には向き不向きがあって、起業家なり自営業者というのは、向いていない人にはひたすら辛いことばかりだ。そして、向いている人というのは、放っておいても勝手に起業する。
雇用者になると、被雇用者同士のような人間関係はできなくなるし、手元の資金、売り上げ、人材を確保し続けることへの精神的な重圧と永遠に付き合うことになるし、そして万が一倒産したら、多かれ少なかれ借金を抱えてしまう。そのような危険性と向き合うのが気にならない人が自然と起業するなら良いが、向いていない人が努力して起業するのはどうだろうか。
これは、自分の持つ能力とは全く次元の話で、向き不向きという点はとても大きい。
自分のやりたい「何」がはっきりしていて、またのその「何」においてそれなりの実績を残していて、且つ性格的に向いている人には、起業というは一つの選択肢だろう。ただ、それもあくまでも選択肢の一つであって、起業という形が大切だとは思わない。