鹿児島県、いちき串木野市羽島にある、この薩摩藩英国留学生記念館。YouTubeの動画でその存在を知り、ぜひ行きたいと思っていました。調べてみたところ、実家から車で20分くらいで行ける場所でした。アクセスは、新幹線の川内駅から車で30分、鹿児島本線の串木野駅から15分です。下記が薩摩藩英国留学生記念館のHPです。
http://ssmuseum.jp/
最近、留学する日本人が減っていると言われていますが、この記念館に紹介されている留学生は、鎖国中に脱藩して密航して英国に留学した人たちです。現代の常識で考えると、ちょっとやばい人たちなのですが、なぜ彼らは重罪になることを知りながら、法を犯してまで英国に留学したのでしょうか。
私がそうであるように、歴史に詳しくない人でも分かるように、ざっくりと書くと、1862年9月に生麦事件が起きて、薩摩藩の武士が英国人4人に斬りかかり、その内一人が亡くなる、英国が謝罪、賠償金、犯人の処刑を求めるが、薩摩藩はこれを拒否する、1863年8月に薩英戦争が起きる、英国は生麦事件に関する交渉に来たが薩摩藩がそれに応じないため、薩摩藩の船3隻を拿捕して、人質を取る、薩摩藩が攻撃を始める、英国の艦船も攻撃を始める、その後、横浜のイギリス公使館で交渉をまとめる、1864年6月人質に取られ罪人扱いされていた、五代友厚が薩摩藩に英国への留学を提案する上申書を提出する、それが採用される、1865年4月に密航という形で英国に向けて出港する。
出港するのに羽島が選ばれたのは、当時羽島は陸の孤島で海路以外に移動手段がなく、幕府や一般市民に内緒で密航するのに適していたからで、留学生たちは英国行きの船がいつ来るか分からないまま羽島に2ヶ月間ほど滞在します。トーマス・グラバーが手配した船が来たことを知り、留学生一行は羽島を小型船で出発し、沖で待っていた英国行きの大型船に乗り換えて、日本を後にします。
公式な記録としては、直ぐ近くにある甑島への渡航となっており、薩摩藩が幕府に嘘をついて、彼らは密航しました。彼らが日本に帰国した時には、鎖国が解けていたため、密航を咎められることはなかったようです。留学生一行は、留学後に素晴らしい功績を残されています。
歴史に詳しい人はこれくらいは知っていたでしょうし、ネット検索でも調べられると思います。ただ、私は実際にこの薩摩藩英国留学生記念館に足を運ぶことをお勧めします。理由は、館内で案内してくれる職員の方がとても歴史に詳しいからです。一通り説明すると1時間です、とのことで、館内の案内をしてもらい、本当に1時間くらいで終わりました。
本当はもっといろんな質問をしたかったのですが、一緒に行っていた母が早く帰って、昼食の準備をしたいのを知っていたので、質問を控えて帰ってきました。あくまでも私の想像ですが、あの職員の方はきっと3日間連続で行っても語り続けることができるだろう知識の持ち主です。本人と確認した訳ではないので、あくまでも私の想像です。
ウガンダでは、1958年にスピークがナイル川の源流を「発見」し、1977年に最初の宣教師がやってきて、1894年に現在のウガンダがウガンダ保護領となります。アフリカやアジアでの植民地化が進み、世界中が大きく変化する激動の時代だったのでしょう。
では、記念館で撮影した写真を紹介します。
薩摩藩英国留学生記念館の外観。海沿いにある。
近代日本黎明の地、良いネーミングだと思った。
生麦事件のあった場所。日本の文化習慣を知らない4人の英国人の貿易商が、薩摩藩士に斬りつけられた。
亡くなった英国人の写真。
薩英戦争絵巻。戦争の様子が描かれている。
密航した一行への渡航許可証。甑島に行くと書かれている。
小型船で沖まで行って、実際に英国まで行く大型船に乗り換えた。
一行は英国領の町で停泊しながら、英国まで移動した。英国によって近代化された街、植民地化され虐げられる現地の人たちを目の当たりにした。
英国に到着。
留学生の軌跡
留学生のリスト。本名、留学用の別名、渡航時の年齢、留学後の功績などが書かれている。
留学生が英国で撮影した写真。髷を落とし、現地で仕立てた洋服を着ている。
五代友厚の上申書。渡航予算の工面方法、留学すべき人材など、細かく書かれている。
留学生の一人が出港の際に読んだ詩が書かれた石碑。