マサイ・マラで考えたこと

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8月のマサイ・マラは、タンザニアから多くのヌーが来ていて、動物の密度が高かった。それは、多くの生と死をもたらすようで、多くの動物の死を目の当たりにした。

今回、最も考えさせられたのが、川岸に打ち上げられたヌーの死骸だった。濁流するマラ川のその地点には、20体近くのヌーの死骸とそれに群がる無数の肉食鳥がいた。

川渡りの際に犠牲になったヌーの死骸が、流されてここに集まるらしいのだが、ワニに襲われたのではなく、川を渡る時に将棋倒しになって死んだヌーの死骸らしい。それが、川岸の一箇所に集まり、強い悪臭を放つ。死に意味があるのかないのか知らないが、将棋倒しによる死は、ワニに襲われたそれよりも意味合いが希薄なような気がする。

きつい異臭の中、ヌーの死骸をついばむ肉食鳥たちを眺め続けた。刹那的ではあるが、本来生き物など、こんなものなのかもしれないと思った。将棋倒しだろうが、ワニに食べられたのだろうが、ヌーが死んだことには紛れもない事実で、ヌーの死に意味などきっとない。種の保存の本能で、生を受けて、次世代の生を残して死んでいく。それだけだ。生のある内は必至になって生きる。生き物として潔いと思った。

で、ヒト族ヒト科のヒトのことを考えてみたのだが、間違いなく地上で最もイサギワルイ生き物で、且つ最もおごった生き物なのだと思う。生きるのに生き甲斐が要って、働くのに仕事の遣り甲斐が要って、死に意味合いが要って、1日1ドル以上の収入が要って、学校での教育や学歴が要って、着る服が要って、予防接種が要って、家が要って、家には水道が要って、電気やガスも要るのは、経済的に恵まれた近代のヒトのおごりだと思う

初期のヒトはそんなことを考えたことは一切なかっただろうし、現代社会でも上で挙げた要素がなくとも、ヒトは間違いなくヒトだと思う。知性を持つが故に、知的な生き方を意識し過ぎて、本来の生き物としての業を忘れてしまう。

日本人から本能が失われつつあるというのは私の持論だが、少子化というのも業を忘れたヒトの悲しい結末か。生き物なら、生まれたからには次世代を残すのが業で、こんなことを言うと笑われそうだが、さほど相手を選り好みせず、経済的余裕も捨てて、くそ貧乏を覚悟すれば、それほど難しいことではないと思う。それでも、条件も余裕も落とさずに、自分の快適さや仕事を選び、次世代を残すことを選択しないのは、生き物としてどうだろう。それは、本人が気付いていないだけで、知的になり過ぎた結果のおごりなのではないか。

子を多く残すことが価値観となっていて、人口増加率が世界でも最も高く、同性愛には大反対の国に住んでいる私は、あまり意味がなさそうな動物の死を見て確かにそう思った。

日本でも、死をもっと身近に近付けてはどうかと思った。自分で食べる肉をスーパーで買うのではなくて、動物を自分の手で屠殺するとか、家族の死は病院でなくて自宅で迎えるとか。そうしたら、便利な社会しか知らない日本人も、少しは価値観も変わってくるのではないかと私は確かにそう思った。

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