肯定という逃避

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獰猛な、という印象を持っていたという話を聞くことが多いが、実際には大半のアフリカ人は温厚な性格だ。おおらかさが裏目になり、仕事においてはそれが仇となることもある。

定時8時に出勤せずに、8時半にやって来て、9時に来るよりはましだと言って、自己を肯定し、正当化する。日本文化においては、言い訳と認識されるだろう。

これを「肯定という逃避」と呼んでみる。

雨が降っても、傘がなく濡れてしまっても、結果さほど濡れなかったなどと言って、自己を肯定する。他人には迷惑がかかっていない場合であれば、非常におおらかだともいえる。

日本人の場合、少し事情が変わる。以前に雇っていた日本人とのやり取りで、毎回不思議に思うことがあったのだが、社内で問題が起きて原因を問いただすと、その度に自分の指示の出し方が悪かったなど、自己を否定し、実際に問題を起こした社員を肯定する。多少の美徳の意識があるのだろうか。家庭内暴力を受けながら、被害者の自己を否定し、加害者の配偶者を肯定するのに似ていると感じた。

上記はそれぞれ、少し事情は異なるが、共通しているのは、何の解決にもならない見解であるということ、おそらくそこに学習なり成長はないということ。

長所を伸ばす、などという言葉もあるが、短所に目をつぶるという意味であれば、こちらも肯定という逃避といえる。

個人の性格以外の場合も、どれだけ特化した強い長所を持つ会社や商品でも、極端な短所があると、残念ながら顧客からは選ばれない。一個人の中でそれを解決するのか、会社という社会全体でそうするのか、やはり短所はなくさないと、会社なり商品は生き残れない。

世の中には、否定からは何も生まれないという言葉もあるようだが、その反面無意味な肯定やむやみな肯定からも何も生まれない。結果オーライ、何事も肯定する人もいるが、多くの失敗に目をつぶっているだけで、学習しない人が多い傾向があると思う。10の内、9が短所で、長所は1しかないのに、必死になってその1で10全てを肯定しようとするような感じだ。

最近、身の回りで何かが起きて、これを書いた訳ではないが、肯定という逃避、その場しのぎみたいなものが、私は大嫌いで、思い付いたので書いてみた。

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