
今日のニュービジョン紙に興味深い記事ありましたので、その一部翻訳してみます。
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サンデー・ビジョン、サンデー・マガジン、2010年04月25日
ゴメシ、事実上のウガンダの国家衣装は、カエタノ・ゴメス氏によってデザインがされました。しかし、袖のふくらみや優雅な帯は、文化の成長のお話へとつながります。文:ジョン・ナザレス
ゴメシまたはブスーティは事実上のウガンダの国家衣装です。それは、優雅でカラフルな床丈のドレスです。それにも関わらず、現在でもその原点はネット情報では明確でなく、デザインがされたのは1905年から1940年代とばらつきがあります。
ゴメス・ジョン、エラ氏が、ゴメシと彼らの父のカエタノ・ミラグレス・ゴメス(CM)についての記事を書くかと、私に持ちかけたとき、私は全てが理解に値する話だと思いました。
その代わりに、それは探偵のような話になり、発見の過程はとても刺激的なものになりました。では、私と一緒に旅に出ましょう。
その始まり
そのお話は、1905年のガヤザ高校の誕生と、アルフレダ・アレン校長が仕立て屋のゴメス氏に女子用の制服を依頼することに始まります。CMゴメス氏のインタビューに基づく記事によると、そのドレスをデザインしたのは、本人か、一緒に働いていた兄のアントン・グロリア・ゴメス(AG)氏か明確でないようです。CM氏の記憶によると、アレン校長と話したのは兄のAG氏で、彼と一緒に働きに来た1908年には兄が既にガヤザ高校向けの制服の裁縫を始めていました。しかし、同じインタビューにおいて、いつどのようにドレスができたか、彼の記憶は間接的な糸口を与えます。
このように、ガヤザ高校が開校した1905年に、最初のゴメシがデザインされたと考えられます。しかし、AG氏がインドのゴアからウガンダに来たのは同じく1905年で、仕立て屋の商売を始めたばかりで、その年にデザインをしたとは考えにくいです。
1905年から1908年頃、アレン校長がAG氏に綿の”スウカ(袖なし)”を作らないか持ちかけます。しかし、”スウカ”は児童が肉体運動をする時に、はだけてしまうだろうと、アレン校長は児童が品良くいられるように、より良いデザインを求めました。デザインに袖(ヨーク)を加えることによって、AG氏がそれを実現しました。
ダウディ・チュワ2世王の戴冠式で、王妃が彼の仕立てたドレスを着るまでは、大衆には人気は出なかったと、CM氏のインタビューで彼が明確に思い出しています。王の将来の妻がゴメス氏に彼女のドレスを仕立てに来たのは、驚きではありませんでした。コックス氏らによると、「王がお嫁さんを探していた時、ガヤザに彼が来て、、」、ガヤザ出身だった彼女はゴメス兄弟のことは良く知っていました。
ゴメシはビクトリア朝やエドワード朝のドレス(袖の膨らむ)の外見、またゴメス氏の故郷のインドのゴアで知られるサリの外見を持っています。女性らしい体形を強調するために、腰には帯びも加えられました。
チュワ2世の戴冠式は1914年に行われ、それゆえこの年が名誉なゴメシの誕生した年となります。
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ガンダ族の民族衣装のゴメシの歴史、とても興味深く感じました。しかし、作られてから百年にも満たないものが民族衣装とされています。この点は、日本でも良く知られるマサイ族なども含め、アフリカの他の民族でも同じことでしょう。
それまでは、繊維を作る技術のなかったウガンダに、布や服が持ち込まれたのは19世紀の終わりで、今日でも原材料から完成品まで一貫してウガンダで作っているのは柏田さんの工場だけです。
なので、ウガンダにある民族衣装が、実は外国人によってデザインされていたとしても、不思議ではないのです。何世紀にも渡って服を作ってきた人たちとの間には大きな差があるでしょうから。
上記にある、ダウディ・チュワ2世の先代にあたるムワンガ2世が、最後まで外部者に抵抗したラスト・キング・オブ・ブガンダとも言える人で、彼以降の王様は外部の影響を強く受けます。
ムワンガ2世の時代がガンダ王国の大きな転換期と言えます。その後チュワ2世の時代に、1914年に王妃が外国人によって作られた服を着て、それが民族衣装となり、1938年には王の墓がコンクリート建てになりました。
1894年にガンダ王国が英国の保護領になって百年と少しですが、ウガンダおよび他のアフリカの国は、とてつもない大過渡期にあるとつくづくと感じます。