ウガンダの認識 「協力」

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ウガンダに十数年住んでいる私だが、ウガンダ人は「協力」をすることがなかなかできない人たちだと思うことが多い。協力をすれば効率が上がり、自らが利益を被るだろうに、自分一人のことだけを考え、あるいは上手く利益を分配できないため、何事につけ一人で完結できる範疇を超えることが出来ず、ずっとその中にとどまっている。

日本人は協力することを子供の頃に家庭や学校で学び、それを当たり前のように思っているが、そもそもなぜ人間は協力することを始めたのだろうか。食糧危機が発生しそれを乗り越えるのに協力した、なにか巨大な建築物を作るにあたり一人では作れないので協力した、またはさせられた、いろんな理由があると思うが、おそらく何らかの必要性が発生して、初めて協力をしたのではないだろうか。

しかし、気候や食料事情のよいウガンダでは、そもそもそのような協力の必要性があまりなかったのだと思う。協力しなくても生きていける環境にいたということ自体は、とても幸せなことだと思う。それゆえ、やったことのない協力をいきなりやれといわれてもできない。また、協力できないということは、あまり大きな社会は形成できないということを意味する。

悪い例だが、ここで賄賂を例に考えてみる。賄賂は、渡す側と受け取る側の協力があって初めて成立する。罰金を払いたくない運転手と個人的な収入を得たい警官、この二人はある種の協力をしている。ここで協力が成立したのは、二者の利害関係が一致し、お互いに得をすることがはっきりしていたからだろう。これは特殊な例だが、利害関係が一致していること、利益の分配ができることは、協力ができる条件だと言えると思う。

現在のウガンダの社会は、利害関係も利益の分配、いずれにおいても協力の条件を満たしていない。同時に、協力を成立させるには社会が大きすぎるように思う。現在あるような国という社会形式は彼らに向いていなくて、国という単位で皆が団結するようなことは、これからもあまり期待できないと思う。それは、アフリカの国々が第三者に作られたことだけが理由ではなく、彼らの気質に馴染みにくいというのも、背景にあるかもしれない。

なので、ウガンダでの「協力」に対する私の認識は、彼らはもともとあまり協力する必要のなかった人たちで、さらに協力のしにくい社会になっていて、それが成立しにくい現状にある、というところだ。

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