情報が少ないという幸福

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東アフリカに長く住まれていた日本人の先輩が亡くなり、改めてその方の経歴を知った。1970年代半ばに初めてアフリカに来られ、旅の素晴らしさを知り、その後アフリカに住みその素晴らしさを知ってもらうことを生業にされた、とのことだった。

私がアフリカに来たのは、1990年代の半ばのことで、まだ電子メールもインターネットもない時代で、得られる情報は数少ない印刷物や行ったことがある人との会話のみで、東アフリカの歴史に関しての本を読んだが、画像・映像という情報は殆ど得ることができなかった。あとできることは、そうやって得た情報から想像を膨らませることだけだった。

1970年代に、彼はどれだけ現地の情報を持ってアフリカに来たのだろうか。活字・文章という形式での情報だったのか、いくらかは画像での情報もあったのだろうか。ただ、得られる情報はかなり少なかったことは間違いなく、行き当たりばったりの要素も多い旅だったのだろう。

反面、東アフリカの主な観光は当時から大自然と野生動物だが、70年代のアフリカは今よりもずっと人口が少なく、今よりも多くの自然が残されていただろうから、彼が見たアフリカは現代に我々が見ることができるそれよりもずっと素晴らしいものだっただろう。

私が彼を羨ましく思うのは、もはや現代の私たちが見ることができないだろう光景を見ることができたことよりも、彼が私たちよりも圧倒的に少ない前情報を持ってアフリカを見聞することができたということだ。それによって、現代の我々よりも彼はずっと強い感動を受けただろうことは疑いの余地がないと思う。

テレビ番組の取材では、意図的に予め出演者にあまり前情報を与えずに、現地入りしてもらうこともある。事前にそれを詳しく知ってから見るのと、全く知らないまま見るのでは、全く印象が異なり、受ける感動の度合いも大きく異なるからだ。

それに近い状態の体験を、彼が70年代に彼が経験できたのは、彼が冒険心を持ちそれを実行したからで、それはそれで評価されるべきだが、社会的背景としてやはり情報が少なかったことも事実だ。

そういう意味合いで、過剰なほどの情報に溢れた現代社会は、人が強い感動を受ける環境としてはあまり適したものではなく、多くの情報から得た利便性や効率などと引き換えに失ってしまったものも多いのではないかと思う。

1980年代に「川口浩探検隊」という俳優が探検隊の隊長を演じる娯楽番組があったが、現代よりもずっと情報が少なかったからこそ許された番組で、情報が少なかったからこそ、私を含め当時の視聴者はそれを楽しむことができたのではないだろうか。

情報がないということは不便で、当時は現代と比べるとずっと効率の悪い社会だっただろうし、旅の安全の確保も難しくなるので、単純に昔は良かったということではないのだろうが、労力なく莫大な量の情報を得られる現代では、知らないことに出会う感動が確実に減ってしまっているのだろう。

便利さを捨てる勇気はないにもかかわらず、亡くなった先輩の人生から、不便さの上に成り立つ強い感動に憧れを感じた。
 

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