アフリカ回想録2022 犬の死

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10年以上前に犬を飼っていた時、不慮の事故で私は自分自身でその犬を殺してしまったことがある。犬は頭から血を流しながら、自分の犬小屋までふらふらと歩いていって、そこで倒れた。事故を起こした自分を責める気持ち、病気がちな犬を引き取り、病気が治ってきてやっと健康になってきていた思い出、子供たちも可愛がっていた犬だったこと、早く病院に連れて行かなければ、どの病院に連れて行こうかなど、かなり動揺しつつ、犬を車に乗せる準備をしようとした。

その時、ウガンダ人のお手伝いさんが、「犬はもう死んでる。」言った。まだ息は残っていたように見えたが、もう助からないという意味で言ったのだろう。その後、犬は全く動かなくなった。事故の動揺や犬の死体を運んだ時に感じた犬の感触や重みなど悲しみでその日は身動きがとれず、ずっとベッドで横になっていた。

その中でいろいろ考えた。かなり動揺していたこともあるが、なぜお手伝いさんは犬が死んだと分かったのに、私は分からなかったのだろうと疑問に思った。私は犬の目の前にいて、はっきりと犬の状態を自分の目で見ていたのに、なぜ分からなかったのだろう。この質問にその時直ぐに答えは出なかった。

今、私が思うその疑問への答えは、今までに経験してきた死の数なのではないだろうかということだ。ウガンダでは、鶏や山羊など家畜を食べる時は自宅なり近くの市場で殺して裁くし、医療施設のレベルの関係で病院ではなく自宅で亡くなる人も多い。日本では肉はパックした状態で売られていて、パックされる前の家畜の死を目の当たりにすることは先ずない。また、多くの人は病院で亡くなる。死が身近にあるのか、遠い存在であるかの違いだったのだと思う。

便利で豊かな日本に育った私は自分の犬が死んだかどうかも分からないようになっていて、人類の歴史のどこを普通とするかにもよるが、長い歴史から見たら、普通なら人が直ぐに分かるべきことが私は分からなくなっていたんだなと思った。

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