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安倍元首相が暗殺された背景を伝え、ウガンダにも山上容疑者のような境遇の人はいるかと聞いてみたところ、多くの人がいると答えた。

ウガンダを含めアフリカは宗教に熱心な人が多く、信仰を否定する訳ではないが、多額の寄付を募る教会、夜通し歌い踊る教会も多く、教会やモスクからの騒音は社会問題になっていて、宗教の負の側面も多い。毎日、教会に行ってお祈りをするが、仕事は手抜きばかりの人もいて、特定の信仰を持たない私からすると、本末転倒のように見えてしまう。

アジアの大国出身の方とアフリカを旅した時、なぜこんなに宗教関連の広告の多いのかと彼は驚いていた。彼の本国では宗教に関する規制が多く、自由な宗教活動ができず、国民の信仰心、道徳心が低下してしまったらしく、彼は信仰を持つことは良いことだと、アフリカで宗教活動が活発であることを肯定的に捉えていた。そういう捉え方もあるのかと私は少し驚いたのだが、確かに宗教は負の側面を持ちつつも、人々の道徳心を高め、社会に貢献している側面もあるのも事実なのだろう。

さて、暗殺事件以降、日本では宗教の被害者を取り上げた報道が増え、それにより救われた人が多くいたことは間違いないだろう。本来、人を救うべき存在である宗教の信者が被害者になっていて、救われるべき立場にいるというのは本当に皮肉な話だ。ただ、宗教の負の面を取り上げるだけで良いのだろうかという疑問も感じる。

海外に四半世紀以上住む私からすると、おそらく日本人は元々とても信仰心が強い人たちに見える。日本人特有の優しさ、正義心の強さ、勤勉さ、礼儀正しさなども、根底には日本人が培ってきた信仰があると思う。身近なところでは、いただきます、ごちそうさまと言って、信仰を意識しないレベルで食べ物や生き物への感謝の気持ちを表す習慣が身に付いていて、そういう一つ一つの積み重ねがいわゆる日本人の民度の高さの基盤になっているのだと思う。

現代の宗教離れに関しては、学問から得た知識、社会の便利さや経済的な豊かさから、さほど宗教が必要でなくなったともいえるのかもしれない。しかし、スピリチュアル、パワースポットなど宗教の代替も出てきていて、なにかしらの形で救いを求める人は存在するのだろう。

この流れの中、おそらく人々の宗教離れは加速するのだろうが、心の拠り所を求める人がどこに行くのかという課題は残り、結果、宗教の知識や免疫のない人たちが、また騙されてしまう。特定の信仰を持たない私が言うと説得力がないかもしれないが、幸福度の低い日本の現実を見ていると、敬虔でなくて良いので、都合の良い時だけ利己的に利用するような、いい加減な信者になれれば、心の拠り所ができて、幸福度も上がるのではないかと思ってしまう。

当地でこの人は本当に神と契約したのだろうかと考えたくなる人を多く見ていて、そう思ったのだが、日本人は何事にも真面目で真剣に取り組むので、そういういい加減な付き合い方は難しいのだろうか。

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